戦況は熾烈さを増してきた。
No.196/では歴史の話をやりましょう(1)
投稿者/ 芝村@師範 -(2001/10/30(Tue) 12:06:56)

    文章が長いので、2つに分けます。
    ちょっと本格的で横道ですが、お許しください。

    >>>>>>
    >>>>>>「児玉源太郎」
    >>>>>>
    >>>>>>ですか?(2ヶ月もやっていませんでしたが)
    > >>>>
    > >>>>カミルスですね。この人は6回も独裁官をやっています。
    >>>>
    >>>>ちなみに、日本で真の意味の独裁官はいないと思います。
    >>>>児玉源太郎だって、頭ごなしには指揮権を奪うことをしてないはずです。
    >>>> それに一応の形では乃木将軍の部下扱いですし。
    > >>>  だからこそ「真の独裁官」じゃないですか(笑)
    > >>>  だって懐の物出しちゃえば、今の乃木はないでしょう。でも伊○知のアホたれには容赦しなかったでしょ?
    > >> 大体、軍隊の序列やルールを考えれば、出したほうが簡単だけど、そうしなかった。
    > >>>  日本ではあれを「腹芸」っていうんだと思います。でも「普通レベルの独裁官」だとそんなことはできないので、辞令がでるんだと思います。
    > >>>  これはあくまでも個人的な意見です。
    >>
    >>(以下は軍事史家の○○○○氏の各種著作より述べる、私の
    >>意見です)
    >
    >  あの、私の評価ではくだんの御仁は単に「軍事オタク」ですぜ。まあ、軍装や用語とかデータは詳しいですけど、そんなのオタクだったら誰でもそうでしょ う。で、まあその中でも本当のことを書いていることもあるけど、それを解釈するのが本当の「マニア」でしょう。
    >  「オタク」と「マニア」の違いなんて私がいうことでもないと思うんですが?

    A.P.Q.J.

    軍事史家をどう解釈するかはご自由にどうぞ、というところでしょう。
    自分の意にそわないものをオタクとし、自分の意に添えば小説家でも歴史家とする
    貴方の考えには同調できません。

    が、貴方が司馬先生を小説家と呼びたくない点については理解できると思います。

    なぜなら、日露戦争を扱った小説の「坂の上の雲」執筆当時、(要するに新聞連載当時)
    もっとも豊富な一次資料を集めておられる方なので、また事実に対して誠実な方なので
    小説家だからどうこうというこの言にあたらないと思うのです。
    「坂の上の雲」の資料集めにあたっては、熊本軍人会からも何人かインタビューを
    受けておりますし(親子代々軍人というのは割とあるのです)、また防大の教官連も
    助言しておりますから、歴史的な事例やデティールについては軍事史家として通用すると
    思います。

    ただ、この面では寺田近雄氏や児島譲氏も同じですよ。
    この点、オタク、マニア論で語るのではなく、史家同士で意見が相違していることに
    注意していただきたいと思っています。


    (なおトンデモ系というのは遠藤某氏のような、なんというか壮大(笑)な、
    あんまり資料がない状態で歴史を語る人だと思います。)



    >>その腹芸とやらが責任の所在をあいまいにし、
    >>日本陸軍という組織の道を誤らせたのだと思います。
    >
    >  その後の陸軍、海軍が道を誤ったのは、その後のヤツがボンクラだったからです。だって、統帥権の超法規的解釈なんて、日露戦争の時はなかったはずです。

    違います。
    この点は全ての軍事史家が(司馬遼太郎も含む 坂の上の雲のあとがき3をご覧ください)語るように、後の陸軍の原型は山県、寺内の両氏が作っているといって過言ではありません。
    この道を行った先、伝統を受け継いだ結果、太平洋戦争当時の軍隊があります。
    (途中でなお、何人かの造形師の手を経ることになりますが。)

    次に、私は統帥権どうこうという問題については語っていませんし、それは責任の所在をうやむやにするという歴史的意味があったわけでもないと思っております。
    あれは、軍外からの圧力に対する反発がうんだ方便であり、責任を回避するものではないからです。
    (そこまで悪意に解釈する必要はないと思います。)


    次に、主題ですが、私は児玉源太郎が一時しのぎのために使った方便が、後に残した
    影響を述べています。

    これは二つあり。
    1.政治的に斬るのも更迭するのも(自ら辞職することも許せない)という扱いの難しい乃木将軍を扱うにあたり、”資料を残せない行為”をおこなった。
    1-B.その結果、後にこの手法を真似るものが続出した。

    2.1によって乃木将軍を強く処罰はせず、信賞必罰の原則に歪みを与えた。
    2-B.その結果、後にこの手法を真似るものが続出した。

    私が彼を独裁官でないと言ったのは、(彼が実務の人故に)制度を用いない手法を



    >> 天皇や山県のお気に入りという理由で信賞必罰が出来なかった点、
    >>中央参謀の政治的役割の付与など、後の戦争に負ける原因をせっせと
    >>作った中悪党というのが私の児玉源太郎のイメージです。
    >
    >
    >  ああ、なぜ参謀次席になったのかも知らないんですか? 大臣や台湾総督までやった人間が、なんで自分から望んで、そんな階級降下したことも。

    よく知ってますよ。端的に言えば、田村怡与造が死んだためです。
    ここら辺も総ての歴史家が一致して話をしていると思います。

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No.197/Re[8]: では歴史の話をやりましょう(2)
投稿者/ 芝村@師範 -(2001/10/30(Tue) 12:27:47)

    >  あんた「戦争論」ぐらい読んでるんでしょ? あとがきに書いてること読めば、それぐらい想像できませんか?
    >
    >  まあ、台湾総督を手放さなかったくらいですから「中悪党」なんでしょうね。
    >  でも他の人がやってたら「大悪党」でしょうね。

    違います。
    台湾総督を手放さなかったのは、後任にして大本命が病にふせっていたからです。
    この点私は彼の行動を評価しています。 彼が早期に総督をやめていれば、
    さらなる栄転が待っていたと思います。 彼は後年と同じように、他に人がいない
    から自分でやっていただけだと思います。 あの時代の総督はそうもうまみがある
    仕事でもありません。

    私が彼を中悪党と評するのは、以下の話によります。
    彼は満州に司令部を作るにあたり、優秀な参謀、すなわち井口省吾、松川敏胤などを優先
    的に割り当て、本国には有能でない人間(これは英国式修辞表現)を残しました。
    海軍の強い要請で第三軍が創設され、悪名高い伊地知参謀が送り込まれたのはそう
    いう理由があります。その後、無能な、あるいは問題ある参謀を次々と「第三軍にやっ
    てしまえ」と送り込んでもいます。伊地知を選んだのは一説では山県の人事感覚とも
    言われていまが、まあ、仮にそれを首肯したとしても、その後、「第三軍」に問題参
    謀を送り込んだ点の責任は明確に児玉源太郎にあります。
    なぜならその面の裁可は全て彼が下しているためです。これは公式資料として辞令が残っていますから、彼が知らずに無能者を送ったという解釈は成立しないと思います。

    (以上は「坂の上の雲のあとがき4」にもあります。)
    上記を見ると分かると思いますが、児玉源太郎は(世に言われているように)本当に
    乃木希典と仲良かったのか、この点非常に疑問と言えます。
    友人ならなぜこのような仕打ちをするのか、ということです。

    司馬先生は、先にあげた著作の中で、この部分を司令部の参謀が悪い、みたいなことを
    書いておられますが、その参謀が優秀な参謀であることを御自身で書いておられる点、
    自己矛盾しておられます。
    無能者を送り込んで、児玉源太郎に裁可させたのは誰か、という点で司馬先生のペンは
    非常に鈍いのです。
    名前をあげずにこの辺を追求せず、伊地知が大山巌の親戚だから、更迭できず、
    乃木と児玉が仲いいから児玉に乃木の失敗を非難する声が聞こえなかったのだと結論を
    つけておられますが、死傷者見ればこの辺はだれが見ても一目瞭然であり、大山の児玉も
    知らんとは言えない状態であったといえます。
    この点なぜそのような判断が成立するのか、非常におかしいと思っています。

    繰り返しますが、児玉源太郎と乃木希典の仲が良いとこれまでの歴史解釈通り行うから、
    この辺かなり苦しくなるのだと思います。私は以上の点から、この部分に対して単純に
    天皇の裁可が下りなかったため、児玉源太郎も大山巌も困っていたのだと考え、同様の
    意見を述べる寺田近雄氏や児島譲氏を支持しています。

    私はどうかすると児玉源太郎と乃木希典の仲が良いという話自身、天皇の責任を回避
    するために作られた虚構ではないかと考えるときがあります。


    彼が大悪党にならなかったのは、さすがに悪い事をしたと思ったのか、乃木をこれ以上
    ひどいめにあわせることが出来なかった点です。それが多分に政治的な話だったとしても。
    彼は乃木をスケープゴートにしませんでした。そのせいで彼は彼の希望する自決すら
    許されなくなったなのです。

    乃木将軍はこの点、(司馬遼太郎の「殉死」にもあるように)ほんとうに可哀相な人
    だと思います。


    >> そもそも来るタイミングが遅すぎますしね。
    >>二ヶ月遅い。
    >
    >  というより児玉源太郎の失策は、黒江台と奉天会戦に至るまで、何度も起こってます。私も別に彼がスーパーマンだとは思っていませんし、バカなミスもやってます。リリーフではなくて本業で何度も失敗しています。

    いえ、この点は児玉源太郎の失策ではないと思います。
    これはガンパレ作る時に防衛大学の戦史研究をされている方からお話を伺った時の奴
    なんですが、あれはとにかく短期決戦を急ぐためであり、この大目的のためには多少の
    無理は仕方なかった、ということです。
    この点、ある程度の失敗は覚悟の上であり、これを失策とするのは難しいという話でした。
    大陸での作戦能力がまだ十分でなく、地図も兵站が完全でなかった頃の話です。
    この点その話は十分に理解できると思います。


    >  でも、彼がいなかったら日露戦争に勝つことはまずなかったし、だったら今、日本ってどうなってると思います?
    >
    >  ミスはあるのは人間なら当然です。神様じゃないんですから。

    私は児玉源太郎が独裁官でないことと、児玉源太郎が中悪党といっております。
    彼が日露戦争において活躍したことと、その役割を否定するものではありません。


    >>
    >> また、児玉が来たから攻略に成功したと言う話には多分に問題が
    >>あると思います。工兵の随道構築行動は進捗しており、あのタイ
    >>ミングで203高地に攻撃をシフトするのはいささか遅すぎた感が
    >>あります。
    >
    >  なら、あと何万人埋め草にすればよかったんです? というかもうニ霊山(ニが今思い出せません。すみません)に草は生えてなかったですけど。

    違います。全ての歴史家が一致する点だけを数えても戦いに勝つチャンスは
    二回ありました。
    一つ目は最初の攻撃の時の一戸兵衛の具申が出たとき、これを認めた場合でした。
    これは司馬先生も書いておられますし、今回の話題に触れないので割愛します。

    次にこっちは総攻撃ではなく、その間に工兵部隊がせっせとやっていた随道構築
    (トンネル構築、坑道構築とも言う)です。 これは203高地に攻撃がシフトする
    ときには大部分が貫通しており、半月後から一月後に次々と完成して、旅順攻略の
    立役者になります。

    戦後、この戦訓を生かして要塞攻略のための主戦術として工兵科が大拡充される
    のはこの辺の事情があります。

    203高地は地図を見れば分かる通り、海軍の目的である艦隊攻撃には向いてましたが、
    反面、要塞攻略という点ではベストなポイントではありませんでした。
    (陸軍は戦後を見据えて要塞攻略を主、艦隊攻撃を従としていましたから、海軍の主張を退けるのは分かります)

    そして実際に要塞攻略をおこなったのはこれらのトンネルと強襲でした。
    このくだりは当然坂の上の雲にもあります。

    私が問題だといっているのは、以下の点です。
    A.純粋に海軍の言うことをきくだけなら、さっさと203高地を攻撃して艦隊を攻撃、その後撤兵すべきだった。
    A2.問題なのは要塞攻略がほぼ時間の問題になった時点でAをさせたことによる。
    これは今まで任せておいて、後少しのところで梯子を外したようなものである。
    着任すぐ行動に出るのではなく、事情を良く鑑みて203高地攻略をやめるか、もう少し
    遅らせることが出来れば、死者はもっと押えられた。

    203高地の攻略が旅順戦の転回点に映るのは海軍の見方で、陸軍的に言うならば、
    単に203高地の攻略と旅順要塞攻略のタイミングが重なっただけです。
    これらはイコールではなく、故に私は遅すぎる、と言ったわけです。

    児玉源太郎の能力から考えて、このことは十分に予想、推定、行動できたはずです。
    後の時代だから言えるのだと、そういう風には言えないと思います。


    >>-----ここまで----
    >>
    >> まあ、乃木の更迭がされなかったのは明治天皇の裁可が降りなかった
    >>ためであるのは、小説なんかでも良く取り上げられるので、ご存知か
    >>と思います。軍上層部と児玉源太郎は増えつづける損害に頭を痛め、
    >>折衷案を考えたあげくにこう言う政治的手段をとったのだと、思っています。
    >> その意味で言えば、児玉源太郎はスーパーマンでも義にあつい
    >>人物でもなく、写真にある通りに苦虫をかみつぶしたような政治的御仁で
    >>あると思います。
    >
    >  ええ、そのため日露戦争後に心労で死んでしまいますけどね。そのような解釈は、私だと「死者に鞭打つ」と思いますよ。

    以上の私の文を見てから、よろしければ死者に鞭打っているのかどうか、見ていただき
    たいと思います。私は、不当にだれかを貶めるようなことをしているつもりはありません。


    >>
    >>
    >>真の独裁官というのは、誰にはばかることがないゆえに”独裁”なのです。
    >> 和の国ではとてもとても。存在できないたぐいでしょう。
    >
    >  あの、辞令に従ってるでしょ? 法人ってのは人ではないんですか?
    >  なんで独裁「官」なんですか?
    >
    >  こっちも分かってないんですか?(大苦笑)

    独裁官というのは日本語訳で、社内ではラテン語のディレクトールですよ。
    これに官という意味はありません。

    ちなみに私が児玉源太郎を独裁官でないとしたのは、先の書き込みの理由に
    よります。彼は天皇を慮って、遠慮し、臣としての分を最初から最後まで
    まもっております。
    彼をカミルスのような独裁官と一緒にしては、彼の業績は無になって
    しまうと思うのです。
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No.198/Re[8]: では歴史の話をやりましょう(1)
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 12:35:36)

    > A.P.Q.J.
    >
    > 軍事史家をどう解釈するかはご自由にどうぞ、というところでしょう。
    >  自分の意にそわないものをオタクとし、自分の意に添えば小説家でも歴史家とする
    > 貴方の考えには同調できません。
    >
    > が、貴方が司馬先生を小説家と呼びたくない点については理解できると思います。

    あほか。あれは「小説家」です。有名な東郷のT字ターンだって、「坂の上の雲」のあれなんて作り事です。T字ターンを考案したのが誰だか知らないんですか? 3回もリハーサルしてるのに。

    私は「史観」の話をしているのです。司馬遼太郎が小説家なんて、決まりきったことじゃないですか。

    後、続く。
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No.199/Re[9]: では歴史の話をやりましょう(1)
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 12:49:09)

    >  なぜなら、日露戦争を扱った小説の「坂の上の雲」執筆当時、(要するに新聞連載当時)
    > もっとも豊富な一次資料を集めておられる方なので、また事実に対して誠実な方なので
    > 小説家だからどうこうというこの言にあたらないと思うのです。
    >  「坂の上の雲」の資料集めにあたっては、熊本軍人会からも何人かインタビューを
    > 受けておりますし(親子代々軍人というのは割とあるのです)、また防大の教官連も
    > 助言しておりますから、歴史的な事例やデティールについては軍事史家として通用すると
    > 思います。
    >
    >  ただ、この面では寺田近雄氏や児島譲氏も同じですよ。
    > この点、オタク、マニア論で語るのではなく、史家同士で意見が相違していることに
    > 注意していただきたいと思っています。
    >

    ええ、「翔ぶがごとく」でも神風連とか、非常に好意的に書いてますよね。「賊軍」なのに。あなた、郷土の先輩のことも知らないんですか?


    >
    > (なおトンデモ系というのは遠藤某氏のような、なんというか壮大(笑)な、
    > あんまり資料がない状態で歴史を語る人だと思います。)
    >
    >
    >
    > >>その腹芸とやらが責任の所在をあいまいにし、
    > >>日本陸軍という組織の道を誤らせたのだと思います。
    >>
    >> その後の陸軍、海軍が道を誤ったのは、その後のヤツがボンクラだったからです。だって、統帥権の超法規的解釈なんて、日露戦争の時はなかったはずです。
    >
    > 違います。
    >  この点は全ての軍事史家が(司馬遼太郎も含む 坂の上の雲のあとがき3をご覧ください)語るように、後の陸軍の原型は山県、寺内の両氏が作っているといって過言ではありません。
    >  この道を行った先、伝統を受け継いだ結果、太平洋戦争当時の軍隊があります。
    > (途中でなお、何人かの造形師の手を経ることになりますが。)
    >
    >  次に、私は統帥権どうこうという問題については語っていませんし、それは責任の所在をうやむやにするという歴史的意味があったわけでもないと思っております。
    > あれは、軍外からの圧力に対する反発がうんだ方便であり、責任を回避するものではないからです。
    > (そこまで悪意に解釈する必要はないと思います。)
    >
    >
    > 次に、主題ですが、私は児玉源太郎が一時しのぎのために使った方便が、後に残した
    > 影響を述べています。
    >
    > これは二つあり。
    > 1.政治的に斬るのも更迭するのも(自ら辞職することも許せない)という扱いの難しい乃木将軍を扱うにあたり、”資料を残せない行為”をおこなった。
    > 1-B.その結果、後にこの手法を真似るものが続出した。
    >
    > 2.1によって乃木将軍を強く処罰はせず、信賞必罰の原則に歪みを与えた。
    > 2-B.その結果、後にこの手法を真似るものが続出した。

    だから「後のヤツがアホウ」っていってるんじゃないですか。初代の社長が偉大でも2代目がアホってのはよくある話、田中角栄も草葉の陰で泣いてるでしょう。

    >
    >  私が彼を独裁官でないと言ったのは、(彼が実務の人故に)制度を用いない手法を
    > 用いているためです。彼は職務に忠実な忠臣であってそれ以上ではありません。
    >  独裁などもっての他です。
    >
    >
    >
    > >> 天皇や山県のお気に入りという理由で信賞必罰が出来なかった点、
    > >>中央参謀の政治的役割の付与など、後の戦争に負ける原因をせっせと
    > >>作った中悪党というのが私の児玉源太郎のイメージです。
    >>
    >>
    >> ああ、なぜ参謀次席になったのかも知らないんですか? 大臣や台湾総督までやった人間が、なんで自分から望んで、そんな階級降下したことも。
    >
    > よく知ってますよ。端的に言えば、田村怡与造が死んだためです。
    > ここら辺も総ての歴史家が一致して話をしていると思います。

    そこまで分かってて「中悪党」なんですか? 貴方は本当に○○○だ!
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No.200/Re[8]: もう、「仕方ない」
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 12:59:32)

    > やっぱり児玉は独裁官的ではないでしょう。
    >
    > て、いうか児玉源太郎が独裁官的というのは、児玉に失礼なん
    > じゃないかなぁ。大山や乃木を立ててたからこそ、参謀次席になった
    > わけだし。(まさか、児玉が、大山や乃木を傀儡として使おうと
    > 考えてた、なんて思ってないでしょうね?!)
    > 実際の行動にも独裁的なところは見られないでしょう?

    203高地に限っては、十分「独裁官」です。他に言いようがない。

    日本のそこら辺にいる人が、バタバタ殺されてるんです。これを助けるために、非常の行動をとった。しかも回りをなるべく傷つけない方法で。

    だって旅順がおちなかっらた、奉天会戦なんてないし、日本海海戦なんてありえません。

    これを「独裁」っていわずに、他に何って言います?

    >
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 敵は司馬史観に対しても攻撃を加えてきた。感情戦に持ち込むつもりらしい。


No.202/最後に(司馬遼太郎について)
投稿者/ 芝村@師範 -(2001/10/30(Tue) 13:06:22)

    司馬史観とかいいますけど、これは非常に悪い言葉だと思います。
    彼は作品によってはフィクションや自分なりの重んじるときもありますが、
    こと、彼の代表作と言われる「坂の上の雲」では、徹底した考証を
    重ね、丹念に調べあげておられます。この点彼は、小説家たるを
    やめ、途中から偉大なアマチュア歴史家に変られたと思います。

    このきっかけになったのは当該作品がサンケイ新聞連載中にあって、
    日露戦争にゆかりのある方が沢山手紙を送ってきて、色々な話を
    されたためだと、聞いております。

    こここからは想像ですが
    最初小説を書くつもりが、沢山の関係者の声をきくうちに、方向転換
    したのではないかなと、思うのです。 フィクション書くよりもこの声を後に
    残そうと。
    もちろん司馬先生は作品を書くにあたって5年もの歳月をかけて
    調査、思索、読書されてますから、この考えは誤っているかも知れません。
    あの書き出しから子規の最後までを小説とし、その後を歴史と見て構成
    されたのかも知れません。

    -*-

    ここで打ち立てられた司馬史観は、それまでの左翼的な史観に明確な
    違いを表明するものでありながら、同時に乃木希典の扱いに見られるように、
    右翼的な史観とも差があったように思えます。
    この点、彼を右と決め付ける人物を見るたびに、あるいは完全に
    ナショナリズムにそまった右から彼の著作が引用されるたびに、
    ご本人がおられたら、さぞ憮然とをされるだろうと思います。

    私は何度もお目にかかったことがなく、まだ若い自分に手紙の一つばかりを
    やり取りしただけのことなので大きなことは言えません。

    が、彼が書きたかったのはあとがき1にあるように”明治”という本人達にみれば
    幸せな時代であって、後におしつけられる評価ではない、と思います。
    その作者の願いを教育のためとはいえ、無視し、、歴史的な資料として引用し、
    ご本人が嫌っておられた”後におしつけられる評価”をした点、司馬先生には
    同じ物書きとして大変なご無礼とご迷惑をおかけしたと思っております。

    すでに謝ろうにもご本人がお隠れになられておりますが、この点、私が死んだ後で
    探求者の天国、一般人の地獄でお詫びできればと思います。

    2001年10月30日 司馬村の一人
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No.203/Re[10]: 最後に(司馬遼太郎について)
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 13:14:12)

    > 司馬史観とかいいますけど、これは非常に悪い言葉だと思います。
    > 彼は作品によってはフィクションや自分なりの重んじるときもありますが、
    > こと、彼の代表作と言われる「坂の上の雲」では、徹底した考証を
    > 重ね、丹念に調べあげておられます。この点彼は、小説家たるを
    > やめ、途中から偉大なアマチュア歴史家に変られたと思います。
    >
    >  このきっかけになったのは当該作品がサンケイ新聞連載中にあって、
    > 日露戦争にゆかりのある方が沢山手紙を送ってきて、色々な話を
    > されたためだと、聞いております。
    >
    > こここからは想像ですが
    >  最初小説を書くつもりが、沢山の関係者の声をきくうちに、方向転換
    > したのではないかなと、思うのです。 フィクション書くよりもこの声を後に
    > 残そうと。
    >  もちろん司馬先生は作品を書くにあたって5年もの歳月をかけて
    > 調査、思索、読書されてますから、この考えは誤っているかも知れません。
    > あの書き出しから子規の最後までを小説とし、その後を歴史と見て構成
    > されたのかも知れません。
    >
    > -*-
    >
    >  ここで打ち立てられた司馬史観は、それまでの左翼的な史観に明確な
    > 違いを表明するものでありながら、同時に乃木希典の扱いに見られるように、
    > 右翼的な史観とも差があったように思えます。
    >  この点、彼を右と決め付ける人物を見るたびに、あるいは完全に
    > ナショナリズムにそまった右から彼の著作が引用されるたびに、
    > ご本人がおられたら、さぞ憮然とをされるだろうと思います。
    >
    >  私は何度もお目にかかったことがなく、まだ若い自分に手紙の一つばかりを
    > やり取りしただけのことなので大きなことは言えません。
    >
    >  が、彼が書きたかったのはあとがき1にあるように”明治”という本人達にみれば
    > 幸せな時代であって、後におしつけられる評価ではない、と思います。
    >  その作者の願いを教育のためとはいえ、無視し、、歴史的な資料として引用し、
    > ご本人が嫌っておられた”後におしつけられる評価”をした点、司馬先生には
    > 同じ物書きとして大変なご無礼とご迷惑をおかけしたと思っております。
    >
    >  すでに謝ろうにもご本人がお隠れになられておりますが、この点、私が死んだ後で
    > 探求者の天国、一般人の地獄でお詫びできればと思います。
    >
    >

    2001年10月30日 

    > 司馬村の一人

    何も分かっていない、貴方にこんなことを言って欲しくない。
    彼が提示したのは「歴史への真摯な見方」だ。小説ではない。





    >
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No.233/Re[12]: 同輩として少しだけ。
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 17:59:52)

    > A.P.Q.J.
    >
    > 軍事史家をどう解釈するかはご自由にどうぞ、というところでしょう。
    >  自分の意にそわないものをオタクとし、自分の意に添えば小説家でも歴史家とする
    > 貴方の考えには同調できません。
    >
    > が、貴方が司馬先生を小説家と呼びたくない点については理解できると思います。

    > あほか。あれは「小説家」です。有名な東郷のT字ターンだって、「坂の上の雲」のあれなんて作り事です。T字ターンを考案したのが誰だか知らないんですか? 3回もリハーサルしてるのに。

    > 私は「史観」の話をしているのです。司馬遼太郎が小説家なんて、決まりきったことじゃないですか。

    > 後、続く。


    ひとつだけ。司馬遼太郎は小説家であって歴史史家ではありません。だって彼は「直木賞」受賞してから、つまり娯楽小説で生計を立てていたわけです。

    ですから、彼の著作は「作り話」です。

    だって、ご飯食べていかなければならないんですから。

    でも、まったくの空想ってわけではなくて、そのためには彼は膨大な資料、取材をして、なるべく伝わっていることを元に、小説を書きました。ですからそれら をヒントに、自分で本当にあった(と伝えられていること)を調べられるように、私はなりました。

    もちろんそれが歴史そのものかどうかなんてわかりません。

    でも論理的に考えていけば、「ああ、なるほどなあ」と思うことがいくつもあったわけです。

    例えば、日本海海戦で勝負を決定づけたとされている「T字ターン」ってのは、はっきりいえば「話を面白くするために」彼が書いた、作り話です。

    で、それからいろいろ調べていって、実はそうではなかったってのが、私も納得できました。

    ですから、歴史「小説」にかいていることが100%真実なんてありえないし、それを「歴史家で小説家と思いたくないんでしょ?」なんて常識的なこと(正直いって愚弄にあたります)をいわれたもので、頭に血が上りました。

    反省しています。
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No.234/Re[13]: 同輩として少しだけ。
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 18:04:17)


    >  例えば、日本海海戦で勝負を決定づけたとされている「T字ターン」ってのは、はっきりいえば「話を面白くするために」彼が書いた、作り話です。

    ターンはあったのですが、「坂の上の雲」にでてくるような「ドラマチック」な意図、展開ではなかったわけです。
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「ふふ、こっちを感情的にした、と向こうは喜んでいるだろうな」

 竹田津は誤爆を誘うため次のメッセージを書き込んだ。


No.204/Re[9]: では歴史の話をやりましょう(2)
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 13:44:44)

    > >  あんた「戦争論」ぐらい読んでるんでしょ? あとがきに書いてること読めば、それぐらい想像できませんか?
    > >
    > >  まあ、台湾総督を手放さなかったくらいですから「中悪党」なんでしょうね。
    > >  でも他の人がやってたら「大悪党」でしょうね。
    >
    >  違います。
    > 台湾総督を手放さなかったのは、後任にして大本命が病にふせっていたからです。
    >  この点私は彼の行動を評価しています。 彼が早期に総督をやめていれば、
    > さらなる栄転が待っていたと思います。 彼は後年と同じように、他に人がいない
    > から自分でやっていただけだと思います。 あの時代の総督はそうもうまみがある
    > 仕事でもありません。

    他の人間がやったら「うまみ」のあることに変えてしまうからに決まってるだろう。「公平無私」なんてよほど高い徳性の人間でないと見ることはおろか、感じることだってできやしない。

    >
    >  私が彼を中悪党と評するのは、以下の話によります。
    > 彼は満州に司令部を作るにあたり、優秀な参謀、すなわち井口省吾、松川敏胤などを優先
    > 的に割り当て、本国には有能でない人間(これは英国式修辞表現)を残しました。

    軍隊が故国の存亡がかかってる時に、最重要なポジションである「最前線」に最も優秀な人間を送り込むのがそんなに不思議か?

    バックヤードなんて、直接戦闘しないから無能の溜まり場なんて、世界各国どこの軍隊でもそれ以外の例があったら教えて欲しい。後学のために。



    >  海軍の強い要請で第三軍が創設され、悪名高い伊地知参謀が送り込まれたのはそう
    > いう理由があります。その後、無能な、あるいは問題ある参謀を次々と「第三軍にやっ
    > てしまえ」と送り込んでもいます。伊地知を選んだのは一説では山県の人事感覚とも
    > 言われていまが、まあ、仮にそれを首肯したとしても、その後、「第三軍」に問題参
    > 謀を送り込んだ点の責任は明確に児玉源太郎にあります。
    >  なぜならその面の裁可は全て彼が下しているためです。これは公式資料として辞令が残っていますから、彼が知らずに無能者を送ったという解釈は成立しないと思います。
    >
    > (以上は「坂の上の雲のあとがき4」にもあります。)
    >  上記を見ると分かると思いますが、児玉源太郎は(世に言われているように)本当に
    > 乃木希典と仲良かったのか、この点非常に疑問と言えます。
    >  友人ならなぜこのような仕打ちをするのか、ということです。

    だって一方はそれほど優秀でもない人間が門閥のおかげでノーノーと偉そうな地位にいる。自分は有り余るほどの才能を持ちながら不遇でいる。

    まあ、彼も人間だから面白くない気分はあっただろう。例えばあの時、懐の物を出せば、今、両者の立場はほぼ間違いなく逆転しているはずだ。

    それをしないってことが、どんなことか、あんた、本当に分かってないのか?



    >
    >  司馬先生は、先にあげた著作の中で、この部分を司令部の参謀が悪い、みたいなことを
    > 書いておられますが、その参謀が優秀な参謀であることを御自身で書いておられる点、
    > 自己矛盾しておられます。
    >  無能者を送り込んで、児玉源太郎に裁可させたのは誰か、という点で司馬先生のペンは
    > 非常に鈍いのです。
    >  名前をあげずにこの辺を追求せず、伊地知が大山巌の親戚だから、更迭できず、
    > 乃木と児玉が仲いいから児玉に乃木の失敗を非難する声が聞こえなかったのだと結論を
    > つけておられますが、死傷者見ればこの辺はだれが見ても一目瞭然であり、大山の児玉も
    > 知らんとは言えない状態であったといえます。
    >  この点なぜそのような判断が成立するのか、非常におかしいと思っています。
    >
    > 繰り返しますが、児玉源太郎と乃木希典の仲が良いとこれまでの歴史解釈通り行うから、
    > この辺かなり苦しくなるのだと思います。私は以上の点から、この部分に対して単純に
    > 天皇の裁可が下りなかったため、児玉源太郎も大山巌も困っていたのだと考え、同様の
    > 意見を述べる寺田近雄氏や児島譲氏を支持しています。
    >
    >  私はどうかすると児玉源太郎と乃木希典の仲が良いという話自身、天皇の責任を回避
    > するために作られた虚構ではないかと考えるときがあります。
    >
    >
    > 彼が大悪党にならなかったのは、さすがに悪い事をしたと思ったのか、乃木をこれ以上
    > ひどいめにあわせることが出来なかった点です。それが多分に政治的な話だったとしても。
    > 彼は乃木をスケープゴートにしませんでした。そのせいで彼は彼の希望する自決すら
    > 許されなくなったなのです。
    >
    >  乃木将軍はこの点、(司馬遼太郎の「殉死」にもあるように)ほんとうに可哀相な人
    > だと思います。
    >
    >
    > >> そもそも来るタイミングが遅すぎますしね。
    > >>二ヶ月遅い。
    > >
    > >  というより児玉源太郎の失策は、黒江台と奉天会戦に至るまで、何度も起こってます。私も別に彼がスーパーマンだとは思っていませんし、バカなミスもやってます。リリーフではなくて本業で何度も失敗しています。
    >
    >  いえ、この点は児玉源太郎の失策ではないと思います。
    > これはガンパレ作る時に防衛大学の戦史研究をされている方からお話を伺った時の奴
    > なんですが、あれはとにかく短期決戦を急ぐためであり、この大目的のためには多少の
    > 無理は仕方なかった、ということです。
    >  この点、ある程度の失敗は覚悟の上であり、これを失策とするのは難しいという話でした。
    >  大陸での作戦能力がまだ十分でなく、地図も兵站が完全でなかった頃の話です。
    > この点その話は十分に理解できると思います。

    斥候が上げた報告を無視したり、軽視する参謀が、本当にミスがないと思っているのか?

    うちの高校の先輩の兄貴(秋山)がどんなに苦労したか、小説でなくても知っているだろう?


    >
    >
    > >  でも、彼がいなかったら日露戦争に勝つことはまずなかったし、だったら今、日本ってどうなってると思います?
    > >
    > >  ミスはあるのは人間なら当然です。神様じゃないんですから。
    >
    > 私は児玉源太郎が独裁官でないことと、児玉源太郎が中悪党といっております。
    > 彼が日露戦争において活躍したことと、その役割を否定するものではありません。
    >
    >
    > >>
    > >> また、児玉が来たから攻略に成功したと言う話には多分に問題が
    > >>あると思います。工兵の随道構築行動は進捗しており、あのタイ
    > >>ミングで203高地に攻撃をシフトするのはいささか遅すぎた感が
    > >>あります。
    > >
    > >  なら、あと何万人埋め草にすればよかったんです? というかもうニ霊山(ニが今思い出せません。すみません)に草は生えてなかったですけど。
    >
    >  違います。全ての歴史家が一致する点だけを数えても戦いに勝つチャンスは
    > 二回ありました。
    >  一つ目は最初の攻撃の時の一戸兵衛の具申が出たとき、これを認めた場合でした。
    > これは司馬先生も書いておられますし、今回の話題に触れないので割愛します。
    >
    >  次にこっちは総攻撃ではなく、その間に工兵部隊がせっせとやっていた随道構築
    > (トンネル構築、坑道構築とも言う)です。 これは203高地に攻撃がシフトする
    > ときには大部分が貫通しており、半月後から一月後に次々と完成して、旅順攻略の
    > 立役者になります。
    >
    > 戦後、この戦訓を生かして要塞攻略のための主戦術として工兵科が大拡充される
    > のはこの辺の事情があります。
    >
    工兵においては、元々「旅順自体想定外」だから、トンネル堀りなんて後回しなんて当たり前だろう。訓練も十分ではなかった。でも現場で「やったことがないことをやれ」って言われた兵隊のキモチがあんたはわからんのか?

    しかも、それでそこまで掘った。それがどんなことか、まったく分かってない。

    で、その後、「やっぱりこれもやっとかないと」って訓練するのは当然だ。




    > 203高地は地図を見れば分かる通り、海軍の目的である艦隊攻撃には向いてましたが、
    > 反面、要塞攻略という点ではベストなポイントではありませんでした。
    > (陸軍は戦後を見据えて要塞攻略を主、艦隊攻撃を従としていましたから、海軍の主張を退けるのは分かります)

    あのなあ、旅順をなんで落とす必要があったのか、本当に知ってるのか?

    私は小説を読んだぐらいでそれぐらいのことは十分、分かった。

    ほいほい、機関銃陣地の的になりにでもいったとでもいうのかい?



    >
    >  そして実際に要塞攻略をおこなったのはこれらのトンネルと強襲でした。
    > このくだりは当然坂の上の雲にもあります。
    >
    >  私が問題だといっているのは、以下の点です。
    > A.純粋に海軍の言うことをきくだけなら、さっさと203高地を攻撃して艦隊を攻撃、その後撤兵すべきだった。
    > A2.問題なのは要塞攻略がほぼ時間の問題になった時点でAをさせたことによる。
    >  これは今まで任せておいて、後少しのところで梯子を外したようなものである。
    > 着任すぐ行動に出るのではなく、事情を良く鑑みて203高地攻略をやめるか、もう少し
    > 遅らせることが出来れば、死者はもっと押えられた。
    >
    > 203高地の攻略が旅順戦の転回点に映るのは海軍の見方で、陸軍的に言うならば、
    > 単に203高地の攻略と旅順要塞攻略のタイミングが重なっただけです。
    >  これらはイコールではなく、故に私は遅すぎる、と言ったわけです。
    >
    > 児玉源太郎の能力から考えて、このことは十分に予想、推定、行動できたはずです。
    > 後の時代だから言えるのだと、そういう風には言えないと思います。
    >
    >
    > >>-----ここまで----
    > >>
    > >> まあ、乃木の更迭がされなかったのは明治天皇の裁可が降りなかった
    > >>ためであるのは、小説なんかでも良く取り上げられるので、ご存知か
    > >>と思います。軍上層部と児玉源太郎は増えつづける損害に頭を痛め、
    > >>折衷案を考えたあげくにこう言う政治的手段をとったのだと、思っています。
    > >> その意味で言えば、児玉源太郎はスーパーマンでも義にあつい
    > >>人物でもなく、写真にある通りに苦虫をかみつぶしたような政治的御仁で
    > >>あると思います。
    > >
    > >  ええ、そのため日露戦争後に心労で死んでしまいますけどね。そのような解釈は、私だと「死者に鞭打つ」と思いますよ。
    >
    > 以上の私の文を見てから、よろしければ死者に鞭打っているのかどうか、見ていただき
    > たいと思います。私は、不当にだれかを貶めるようなことをしているつもりはありません。
    >
    >
    > >>
    > >>
    > >>真の独裁官というのは、誰にはばかることがないゆえに”独裁”なのです。
    > >> 和の国ではとてもとても。存在できないたぐいでしょう。
    > >
    > >  あの、辞令に従ってるでしょ? 法人ってのは人ではないんですか?
    > >  なんで独裁「官」なんですか?
    > >
    > >  こっちも分かってないんですか?(大苦笑)
    >
    > 独裁官というのは日本語訳で、社内ではラテン語のディレクトールですよ。
    > これに官という意味はありません。

    だから最初に「アルファシステムの概念での」とまでていねいに聞いてるんだろうが!
    違うんなら最初からいえ! 「師」範なら!

    定義が違えば無茶苦茶になるって、まだ学んでないのか?

    「歴史」みたいにどうとでも解釈できるものは、口先三寸でどーにでもなると思ってないか?

    ふざけるな!



    >
    > ちなみに私が児玉源太郎を独裁官でないとしたのは、先の書き込みの理由に
    > よります。彼は天皇を慮って、遠慮し、臣としての分を最初から最後まで
    > まもっております。
    >  彼をカミルスのような独裁官と一緒にしては、彼の業績は無になって
    > しまうと思うのです。

    あったりまえだ、だから私は児玉を「真の独裁官」といって、カミルスは「普通レベルの独裁官」っていってる。



    徹頭徹尾、あんたは分かっていない。

    だから「トンデモ史観」といって何が悪い!
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こうなってくると一般の参加者も黙ってはいられない。興味から質問するやつもいれば、敵方につくヤツも現れてくる。


No.206/真の独裁官とは?
投稿者/ rakua@部外者 -(2001/10/30(Tue) 14:31:07)

    まったくの部外者なんですけど、teked2さんに質問を。

    戦史についての知識なんてないので、勘違いはご容赦ください。

    >
    >私は児玉を「真の独裁官」といって、カミルスは「普通レベルの独裁官」っていってる。
    >
    >
    世界的に見て「真の独裁官」とは、「児島」氏のような感じでよいのでしょうか?

    芝村さんの<NO.138  Re[4]: 「独裁官制度」>を見ていると、
    (独裁を嫌って王政を廃止したのに一時的とは言え王を作るん
    ですから、背に腹はかえられないということでしょう
    とあるので気になりまして。
    ここでの独裁官が「真の独裁官」であるとしたら、
    「王」?を慮っていた?


    と言うか、
    「真の独裁官」の定義(なんとなく分かりますが)を教えてください。
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No.207/Re[11]: 真の独裁官とは?
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 14:41:12)

    > まったくの部外者なんですけど、teked2さんに質問を。
    >
    > 戦史についての知識なんてないので、勘違いはご容赦ください。
    >
    >>
    > >私は児玉を「真の独裁官」といって、カミルスは「普通レベルの独裁官」っていってる。
    >>
    >>
    > 世界的に見て「真の独裁官」とは、「児島」氏のような感じでよいのでしょうか?
    >
    > 芝村さんの<NO.138  Re[4]: 「独裁官制度」>を見ていると、
    > (独裁を嫌って王政を廃止したのに一時的とは言え王を作るん
    > ですから、背に腹はかえられないということでしょう
    > とあるので気になりまして。
    > ここでの独裁官が「真の独裁官」であるとしたら、
    > 「王」?を慮っていた?
    >
    >
    > と言うか、
    > 「真の独裁官」の定義(なんとなく分かりますが)を教えてください。

    ほとんど災害のような人災を、救うために、非常、危急、無私の決意で、局面を打開する人。


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No.209/Re[10]: 203高地の独裁官
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 14:49:25)

    >> 203高地に限っては、十分「独裁官」です。他に言いようがない。
    >>
    >>日本のそこら辺にいる人が、バタバタ殺されてるんです。これを助けるために、非常の行動をとった。しかも回りをなるべく傷つけない方法で。
    >>
    >> だって旅順がおちなかっらた、奉天会戦なんてないし、日本海海戦なんてありえません。
    >>
    >> これを「独裁」っていわずに、他に何って言います?
    >
    > その理屈はくるしいでしょーー。
    > じゃあ、スターリングラードのパウルス元帥とか
    > Dディ決定したアイゼンハワーとか
    > 宇喜多直家の講和を容れた秀吉とか
    > レイテで反転した栗田とかも独裁官ですか?
    > 局地戦で一時的にフリーハンドを得た現場指揮官は「独裁官」ですか?


    決定的に違う。
    203高地のあの大量虐殺は、「自分の大将と参謀の無能」が招いた「人災」だ。

    それをどうこうしようとするのが、真の独裁官だと思う。
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No.211/Re[13]: 真の独裁官とは?
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 14:51:30)

    >> ほとんど災害のような人災を、救うために、非常、危急、無私の決意で、
    > > 局面を打開する人。
    >
    > 打開できないとダメですか?
    > 反転した栗田の先に米機動部隊がいれば「独裁官」だったんですか?
    > すごくへんですね。

    打開しない人は独裁官ではない。

    レイテもやるってのか?
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No.214/Re[13]: 真の独裁官とは?
投稿者/ taked2@1000 -(2001/10/30(Tue) 15:22:30)

    > 素早いレスありがとうございます。
    > >>「真の独裁官」の定義(なんとなく分かりますが)を教えてください。
    >>
    >> ほとんど災害のような人災を、救うために、非常、危急、無私の決意で、局面を打開する人。
    >>
    >>
    > う~ん。
    > これって、「真の独裁官」に必要なことですよね?
    > でも、
    > それだけの条件で、十分に「真の独裁官」といえるのですか?
    > 「普通レベルの独裁官」には、上記定義が当てはまらないのですか?
    > 独裁官についての知識は、この掲示板に書かれていることくらいしか、現状分かりませんので、
    > (書き忘れを追加します)「真の独裁官」についてを
    > 是非、具体的にご教授下さい。


    「普通レベル」ってのは単に軍隊で訓練、教育したぐらいで、十分に勤まる。

    「真の」は「戦争論」における「軍事的天才」以外にない。

    天才なんて教育で作れるわけがない。


    そういうことです(苦笑)
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No.215/Re[14]: 真の独裁官とは?
投稿者/ 趙狗庵@1074 -(2001/10/30(Tue) 15:25:28)

    >  打開しない人は独裁官ではない。
    >
    >  レイテもやるってのか?

    反転した先に機動部隊がいて大和の46サンチ砲で、
    エンタープライズ、ホーネットなどなどが血祭りに
    あげられていれば独裁官?
    もしくは、反転せずにレイテ湾に突っ込んで大和の46サンチ砲で、
    マッカーサーを血祭りにあげていれば独裁官?

    結果オーライということですか?


    多分あなたは混乱してますね。
    やはり、児玉源太郎は「独裁官的」ではありませんよ。
    打開しようが失敗しようが、ここでの芝村師範言うところの
    独裁官とは関係ありません。もちろん人災とも関係ありません。

    危急存亡の事態打開のため限定で、国家元首も従わざる得ない位の
    権限を持った指揮官、というのが独裁官の定義でしょう。
    児玉が「場合によっては天皇の意思にそむいても」と考えて
    203高地に臨んだとは到底思えません。
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「まあ、普通は、ついてくるのが精一杯だよな」

ここで竹田津はもうひとつの戦機が訪れたのを感じていた。

 

(*注意* 登場する人物、団体等は、全て架空のものです)