日本語の「官」という言葉には、特別の意味がある。
官という言葉は、一般に官吏のことを意味する。官吏、もうちょっと簡単にいえば、政府に雇われている役人ということだ。外交官、裁判官、etc…。つまり最後に「官」がつく役職というのは、公職の役人である、ということである。
そのため、日本では役職で「官」を最後につける場合、非常に注意が必要とされる。特に外国語を翻訳する際に、「官」に相当しない場合は、それを付けないことは常識とされる。ここらあたりは、日本語の先達の功績が大であろう。そのため、俺のような外国の政治システムに不慣れな人間でも、その役職の持つ意味を正確にイメージすることができる。言葉の持つイメージというのは、ここまで便利なモノであるわけだ。
「独裁官」という役職がある。この役職が存在したのは、古代ローマ、それも共和制ローマの間だけである。帝政ローマでは「独裁官」という役職は廃止された。「皇帝」がその実質的後継役職になったのであるが、「皇帝」には「官」は付かない。つまり、「皇帝」ってのは、「公職の役人ではない」ということだ。だからヒトラーは「独裁者」または「総統」と呼ばれることはあっても、「独裁官」と呼ばれることはない。「官」を最後に付ける付けないひとつとっても、日本語ってのは非常に微妙なバランス感覚を必要とする言語なわけだ。
共和政ローマってのは普段は執政官2人の合議で運営されるのだが、「独裁官」という役職は、国難クラスの非常時のみ任命される。共和政ローマ500年間で15人が選出されているだけである。1人に権限を集中させて、とにかく迅速に判断を下すわけである。しかしそのため、個人の権限が強くなり過ぎる懸念がある。そのため、独裁官の任期は6ヶ月と規定されている。日本語に不慣れな人は「独裁」という言葉の持つ強烈さに「何でもできる役職」と勘違いしがちなのだが、「独裁『官』」である以上、頭の上には「『法人』としての」共和政ローマがあることになる。これらの概念、特に「法人」の概念は近代法学で考えられた概念ではあるが、古代ローマの「独裁官」を読み解くには、「法人」の理解が不可欠であろう。そのため、独裁官の行動や決定は「法人としての」共和政ローマの定める範疇から逸脱することは許されないことになる。
このことを、最もよく理解していたのは、共和政ローマの最後の終身独裁官、ユリウス・カエサルであろう。後の歴史家の多くは、カエサルが実質的には皇帝なのに、なぜ帝政に移行しなかったのか、不思議がっているが、俺にはカエサルの気持ちが分かる気がする。それは「共和政ローマの最後の終身独裁官」という肩書きが最も欲しかったのではないだろうか。時代的には、共和政から帝政への移行はカエサルなら分かりきっていたハズである。それならば、自分が守った共和政ローマと最後を共にしたい、カエサルならではの思いが、そこにあるようである。
「ブルータス、お前もか」、カエサルの最期のこの言葉の持つ意味は大きい。それは「独裁官」ではなく「皇帝」を必要とするのかという、我々への問いかけでもあるのだから。