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サイト内の現在位置です: 宗教の定義
宗教の存在意義とその限界
神は存在するか?
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最終更新: 2014-08-18 (月) 06:34:08 (JST) (3750d) by taked2
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存在するものを神と定義すれば、きっと存在するのでしょう。
全く独立した「言葉」としての臭いや色とかが「存在するもの」であるなら、
大概のものは、存在してるって言っても良い気がしますね~
設定と定義しだいですね!
テーマが「存在」でなく「実在」となると変わって来るんでしょうね。
概念が何かを縛ることも無いような気がしてるので、色々混交してる方が
私は大好きです。
PS
命題とは異なりますが、自分の指がもげて落ちてるのみてもそれを自分とは、
思いませんねー
お風呂は行って垢落とすたびに自分が排水溝に流れていくような錯覚も
やはり覚えませんねー
所有格の及ぶ範囲をさすのであれば、また異なっていくのでしょうが。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いました。確かに、「我思う」まではあるんですよね。でもそれだから「我あり」としたのはデカルトの短絡だと思います。私は、自分の存在そのものさえ、疑っています。「胡蝶の夢」って話がありますよね。でも、本当に実体がどこかにあるのでしょうか? それは誰も証明していません。
私は、まあ、自然界においては、物質ではない物ってのは存在していないと思っています。思考、なんてのも単なる電気信号であって、精神世界なんてものは、ありません。高度なロボットは、人間と同じ反応をするでしょう。そのロボットが知性を獲得しているとするなら、私たちが「赤い、熱い」と思うものも、当然、感じているハズです。犬や猫でさえ、熱そうにしたり、寒そうにしたりしてますよね。では、単細胞生物は、熱いと感じているでしょうか? 感じる、ってのは感覚器官があれば、電気信号として感じるものです。イデアとか、クオリアとか想定するのは勝手ですけど、私は無意味なことだと思っています。
私は、神が存在するかどうかは、「分かりません」。でも、私は神という概念は「要りません」。神の存在を仮定するより、神の存在を否定して物事を考えた方が、より、物事の本質に近づけるのではないか、と思っています。
赤いとか熱い悲しいとか感じている存在が私です。では、赤いとか熱いとかは物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。心の外の世界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている音はありません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭い感覚は外の世界にはありません。硬い柔らかいと言う事は、在るでしょうか。それもありません。次々に心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。仏教では色即是空と言います。貴方が見ているものは、心が作り出したもので、決して心の外にある存在ではありません。心が作り出したものは、消えたりもします。現れたり消えたりするので、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。物質は無から有は生じません。有か無かのどちらかです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空であると言っています。概念や意思も空なる存在です。ですから、赤いとか熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花瓶を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花瓶に対応する動きをします。私は、その花瓶に対応する物質の動きを感じて、花瓶を感じるのです。カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが自分です。決して、テレビが自分なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花瓶を感じているのが、自分なのです。脳と言う物質そのものが、花瓶を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。熱いとか悲しいと言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。同様にもし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
仏教ではこの事を、不生不滅・不増不減・不清不穢と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。清くなるものでも、穢れるものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りませんが。
私が感じている感じは感じ取る事が出来ます。しかし、それを感じている私自身を感じる事ができるでしょうか。達磨はインドから中国に来て、皇帝に「お前は誰か。」と尋ねられました。すると「そんな事は、私は知らない。」と答えました。私自身はどの様にしても感じ取ることは出来ません。
心の中の世界そのものが、私の一部なのです。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。仏教では、その1人を小さい私と呼びます。心の中の世界に居る敵も、私の一部なのです。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言ったのです。
人間より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は私の一部にしか過ぎないのです。限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。仏教では、仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えないと言いました。